由緒

2神社の歴史・由緒

当社は康平5年(1062)の創祀と伝わり、奥州平定に向かう源頼義・源義家父子が当地の小高い岡に銀杏の枝を立てて戦勝を祈願し、凱旋の折に銀杏が大きく繁茂していたことの神恩に感謝して八幡宮を勧請した、という由緒が伝えられています。
現在は 浅草橋(台東区)の鎮守として親しまれています。

銀杏八幡の創始

創建は平安時代中期の康平5年(西暦1062年)、後冷泉天皇(皇第七十代)の御代と伝えられております。

その昔、陸奥(現在の東北地方)の豪族である阿部氏が朝廷に反乱をおこすと、朝廷は源氏の頭領である源頼義公とその子、義家公に鎮定を命じられました。
父子は陸奥に下向のみぎり、この地にて一休止の際、隅田川の川上より流れ来る一枝の光るものを拾い上げると、それは銀杏(いちょう)の枝でありました。義家公は「朝敵退治のあかつきには、枝葉(しよう)栄ふべし」と願いを込めてこの枝を丘に挿(さ)し、奥州に旅立ったのです。戦は苦戦を強いられましたが、康平5年(1062)に阿部氏を平定したのが歴史に名高い「前九年の役」です。

阿部氏一族を平定した義家公が、帰路にこの地を再び立ち寄ったところ、丘の上に自ら挿した銀杏(いちょう)の枝葉が大きく繁茂していたので、阿部氏平定は神のご加護であろうと、この銀杏の木の元に祠を建て、一太刀振りを捧げ、「八幡大神」を勧請したのが当社の創めであり、社名の起こりであります。
義家公手挿しの銀杏(いちょう)はその後益々大樹となり、隅田川を上り下る舟や街道を行き来する人々の目標となり、人々は此処を「八幡塚(はちまんづか)」とも、「銀杏塚(いちょうづか)」とも呼んでおりました。

銀杏八幡と福井町

時は下り徳川家康公が江戸に入府なされてからは、この地は越前福井藩の下屋敷となり、八幡様は長いこと福井藩の「屋敷の神」として祀られておりました。

享保10年(1725)に、福井藩下屋敷は幕府により町民に払い下げられ、翌享保11年(1726)には町屋が開かれました。
その当時、この町には町名がなく、初めのうちは町内の位置関係から、中場所・北場所・西場所と呼ばれていたそうです。
その後、町は発展し、享保15年(1730)には丸岡町・銀杏町・福井町の3つの候補の内から、大岡越前守のご指示のもと、福井町と名付けられたとのことです。
それぞれ中場所を1丁目、北場所を2丁目、西場所を3丁目と定められました。
八幡様は、下屋敷が町民に払い下げられた後も、新しく町を開いた町民によりこの地の氏神様として尊崇され、人々より篤い信仰を受けて現在に至っております。
なお、八幡太郎義家公お手植えの大銀杏は、延享2年(1745)9月14日の台風で6メートルほどを残して中ほどより折れてしまいましたが、残った部分は繁茂してより一層の樹勢でございました。
しかし文化3年(1806)に発生した文化の大火により、残された大銀杏もとうとう消失してしまいました。

銀杏八幡と釈行智

江戸時代には神社の管理を寺院が行っていることも多く(別当寺制度)、当社は同地に建てられた覚吽院(かくうんいん)という寺院が当社の別当寺でありました。
それまで管理するものが不在であった当社は、氏子の願いにより享和3年(1803)、京都の醍醐寺三宝院の末寺として「覚吽院(かくうんいん)」が建立され、行弁・行智親子がその住職となり、当社の管理を行うこととなりました。
行智は、大変高名な学者として当時は良く知られておりました。

行智:修験道当山派の山伏で,修験道の歴史や故実,並びに悉曇(しつたん)(梵学)に明るい学者として知られる。
俗姓を松沼といい,字を慧日,阿光房と称した。
江戸浅草福井町の銀杏八幡宮別当覚吽院(かくうんいん)に住み,祖父行春と父の行弁に就いて内典(ないてん)・外典(げてん)の学を修めたが,とくに悉曇にすぐれ,また冷泉流の歌道を学び,持明院基時に就いて書道を習うなど,修験者には珍しく博識多芸であった。
平田篤胤は彼から悉曇を学んでいる。父の後を継いで覚吽院の住持となり,やがて当山派の総学頭,法印大僧都に任ぜられ,同派中で重きをなした。
修験や悉曇に関する数多くの著作を残したが,その中で《木葉衣(このはごろも)》2巻(1832)と《踏雲録事(とううんろくじ)》1巻(1836)の2著は,江戸末期の修験道衰退の現状を顧みて,これを復興しようとする意図のもとに,修験道の来歴,故事伝承をつづったものとして注目される。
1841年3月,覚吽院で没した。

(引用元:株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

行智は、わらべうたを集め記録した「童謡集(文政3年(1820)頃に編纂)」を編纂した人としても知られており、皆さんご存じの「かごめかごめ」や「十五夜お月さん」のなどの童謡を集め、分類した学者としても知られております。他にも、「竹堂随筆」や「童謡古謡」などで、日本各地に散逸した童謡を集成し、後世に残した人物としても知られています。

明治以降から現代に至るまで

江戸時代から明治維新、関東大震災までは江戸時代の区割りを残した氏子区域でしたが、関東大震による復興計画(昭和9年・1934)により、町内も整備が行われ、江戸時代から続く福井町1・2丁目は浅草橋へと町名が変更となりました。
その後、昭和39年(1964)の「住居表示」の実施により福井町3丁目も浅草橋1丁目に編入され、現在の形となりました。江戸時代から続く福井町の名も、234年の歴史に幕を閉じる事となったのであります。