5.新福井町の歴史
浅草新福井町は、江戸期に久保田藩佐竹氏の下屋敷や桑名藩松平氏の屋敷が置かれていた武家地を母体として、明治初年に誕生した町です。
維新後の上地と返付を経て、明治5年(1872)、旧大名屋敷地を合併して町家が起立し、周辺の浅草福井町にちなみ「浅草新福井町」と名付けられました。
成立当初は戸数48、人口322人の小さな町でしたが、東京府に属し、浅草区成立後も一貫して市街地として発展していきます。
町の形成には、久保田新田藩佐竹家や、桑名藩松平家の動向が深く関わっています。
佐竹家は維新後早々に土地を手放した一方、桑名藩松平家は朝敵からの赦免を経て再興され、浅草新福井町には松平定敬が謹慎生活を送った藩邸が置かれました。
こうした旧大名家の屋敷地は、明治中期には北半分が峯島家、南半分が桑名松平家の所有となり、戦前まで貸家経営を通じて町の基盤を支えました。
明治期の新福井町は、医師、荒物商、米商、八百屋、魚屋、湯屋、職人などが軒を連ねる、生活密着型の下町として栄えます。
当時の史料をみると、商人や医師、地主など多様な名士の存在が確認でき、とりわけ医師・巨田尚策は地域医療と公衆衛生の向上に大きな役割を果たしました。
また、旧桑名藩ゆかりの松南学校が開設され、教育の面でも新しい町の姿が形づくられていました。
明治43年(1910)には戸数584、人口2,336人を数え、活気ある市街地へと成長しています。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災は町の姿を一変させ、帝都復興事業による区画整理と町名変更により、昭和9年(1934)には町域が大きく縮小されました。
それでも、昭和20年(1945)の東京大空襲では、住民の必死の消火活動によって柳北小学校が守られたことで、浅草新福井町は奇跡的にほぼ全域が焼失を免れています。
戦後は財産税の施行と華族制度の廃止により、桑名松平家の土地・建物は失われました。
そして、昭和22年(1947)には台東区の一部となります。最終的に昭和39年(1964)、住居表示の実施によって浅草新福井町の名は消え、浅草橋一・二丁目へと編入されました。
こうして新福井町は、武家地から近代下町へ、そして都市再編の中で姿を変えながら、約90年の歴史に幕を下ろしました。
弁天湯の弁天さま(厳島神社)
浅草橋一丁目、かつての新福井町にあった銭湯・弁天湯の入口には、小さな祠が祀られています。
これが弁天湯の名の由来となった弁天さまであり、「おきざり弁天」「のこされ弁天」とも呼ばれてきた存在です。
その由緒をたどると、江戸から近代、そして戦後へと続く町の歴史が浮かび上がってきます。
史料上、弁天さまが確認できる最古の記述は『浅草区史神社仏閣編』で、新福井町一番地に鎮座する厳島神社とされています。
添田知道『香具師の生活』によれば、この祠はもともと松平越中守家の北八丁堀上屋敷に祀られていたといいます。
松平越中守家は桑名藩主家で、徳川家康の異父弟・久松定勝を祖とし、寛永13年(1636)に北八丁堀の屋敷を拝領して以降、幕末まで同地を使用していました。
もし弁天さまがこの屋敷由来であれば、その創建は17世紀前半にまでさかのぼる可能性があります。
明治維新により北八丁堀屋敷は上地され、桑名藩は赦免後、下谷七曲の旧久保田藩下屋敷を与えられました。松平越中守家はここに新たな邸宅と庭園を整え、弁天さまも遷されたとみられます。しかし廃藩置県後、藩士の役宅が不要となると土地は再開発され、明治5年(1872)、旧桑名藩松平氏と旧岩崎藩佐竹氏の屋敷地を合わせて町家が起立され、浅草新福井町が誕生しました。町の一角には松平家の邸宅が残され、弁天さまもこの町の中に置かれることになります。
明治17年(1884)、華族令により松平定教が子爵に叙され松平子爵家が成立。明治43年(1910)には本邸を小石川大塚へ移しますが、その際、弁天さまは移されず当地に残されました。
これが「のこされ弁天」の由来と考えられます。庭園は早くに町地へと転換され、弁天さまは町の管理に委ねられました。
添田知道の記述によれば、弁天堂には複数の仏像が祀られ、町の有志、とりわけ米屋三河屋嘉兵衛らが縁日を立て、露店を招き、信仰とにぎわいを支えました。やがて参詣者も増え、堂守が置かれ、弁天さまの名は町の発展と歩みをともにします。
しかし昭和20年(1945)の東京大空襲で弁天堂は焼失し、敷地も失われました。それでも戦後、弁天さまを惜しむ町の人々の声によって、弁天湯の入口に迎え祀られ、再興されることとなりました。
こうして、かつて弁天さまの名を得た風呂屋が、今度は行き場を失った弁天さまを引き取るという、象徴的な関係が生まれたのです。
昭和、平成、令和と時代が移り変わっても、弁天湯の弁天さまは町の人々の手で守り継がれてきました。その小さな祠は、松平家の屋敷神から町の守り神へと姿を変えながら、新福井町の記憶を今に伝えています。
引用文献(順不同敬称略)
『浅草区史 神社仏閣編』浅草区史編纂委員会編(大潮啓文社1933)
『香具師の生活』添田知道(雄山閣出版1964)
扇稲荷神社の歴史
扇稲荷神社は、かつての浅草新福井町一帯(現在の浅草橋二丁目南西部および一丁目北西端)を守る町の守り神として祀られてきた神社です。
境内に残る由来板と石碑によれば、その起源は桑名藩松平家の江戸屋敷内に祀られた屋敷神にあり、上屋敷・中屋敷・下屋敷の稲荷社が合祀された可能性が考えられます。
明治維新で桑名藩は朝敵とされ、江戸屋敷はすべて上地となりましたが、明治2年(1869)に赦免・再興され、旧北八丁堀屋敷の一部や代地として下谷七曲り屋敷(旧久保田藩佐竹氏下屋敷)が下賜されました。
この七曲り屋敷内に祀られていた屋敷神が扇稲荷神社であり、のちにこの地が新福井町として町家化されると、屋敷神は町の守り神へと性格を変えていきました。
明治5年(1872)、旧桑名藩松平氏の屋敷地と、北隣の旧久保田新田藩佐竹氏屋敷跡を合わせて浅草新福井町が成立します。
廃藩置県後、桑名松平家は家臣団解体に伴い屋敷を町家へ転用し、地主として町の形成を支えました。
この過程で、扇稲荷神社はそのまま地域の信仰の中心として残され、町の暮らしと結びついていきます。
桑名松平家本邸が明治43年(1910)に小石川大塚へ移転した後も、神社は現在地にとどまり続けました。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災により、新福井町は甚大な被害を受け、扇稲荷神社も社殿のみならず御神体まで焼失します。
これに対し、昭和6年(1931)、町の人々は奉賛会を結成し、力を合わせて神社を再興しました。
このとき建立された石碑には、商人、医師、職人、芸能関係者など、町内外の多様な寄付者の名が刻まれており、新福井町の経済的活力と信仰の厚さを今に伝えています。
昭和20年(1945)の東京大空襲では、浅草区の大半が焼失しましたが、新福井町は柳北小学校を盾にした住民の必死の消火活動によって、奇跡的にほぼ全域が焼失を免れます。
再興された扇稲荷神社の社殿もまた、住民の手によって守り抜かれました。
戦後、松平家の土地や建物は財産税により物納され、昭和39年(1964)には新福井町の町名も消滅しましたが、扇稲荷神社への信仰は途切れることなく受け継がれてきました。
町の姿が大きく変わった現在も、扇稲荷神社は地域の記憶と人々の思いを宿す存在として、静かに守り継がれています。