由緒

4町の歴史

江戸時代から受け継がれ、関東大震災まで用いられた旧町名を手がかりに、各町の歴史をご紹介します。

6.上平右衛門町の歴史

上平右衛門町は、神田川北岸に位置し、明治3年(1870)から昭和38年(1963)まで存続した町です。江戸時代には浅草平右衛門町と総称され、のちに浅草橋を境に上平右衛門町と下平右衛門町に分かれました。
町名の由来は、徳川家康の江戸入府に際し、町割や架橋などの土木事業で功績を挙げ、この地を与えられた三枝(のち村田)平右衛門にさかのぼります。
元和2年(1616)、二代将軍秀忠の浅草御成りを契機に町屋が起立され、平右衛門家が代々名主を務めました。

当初は水田と湿地が広がる郊外でしたが、享保期以降、町は次第に拡大します。
神田川沿いという立地を活かし、水運と結びついた商業が発展しました。
享保10年(1725)には御用地として一度収公されました。
しかし町民たちが河岸を失うことを嫌い、再び川沿いの土地を求めた結果、元文元年(1736)に商床地として認められ、天明6年(1786)には新規町家となりました。町内には米穀問屋が集まり、神田川沿いの「石切河岸」では石材加工が盛んに行われ、近代まで続く町の産業的特徴を形づくっていきました。
一方で、この地は水害とも無縁ではありませんでした。
神田川の改修によって舟運は発展しましたが、洪水の被害は江戸期から昭和に至るまで繰り返され、住民は水と共存する暮らしを余儀なくされました。
町には発明家の桐沢嘉六や、幕末から明治にかけて活躍した漆工家・柴田是真といった人物も住み、職人と知恵の町としての一面も持っていました。

明治以降、上平右衛門町は正式な町名となり、浅草区に属します。
土地所有は町外地主が多く、近代都市に典型的な寄生地主構造が見られたが、酒井清兵衛のように江戸以来の縁を持つ名士も暮らし、地域社会を支えました。大正12年(1923)の関東大震災では町の大半が焼失し、帝都復興事業によって街区は再編されます。
昭和7年(1932)には総武線浅草橋駅が開業し、町は交通の要衝として新たな姿を与えられました。

しかし昭和9年(1934)以降、町域は次第に縮小し、昭和20年(1945)の東京大空襲で町は再び壊滅的被害を受けます。戦後、行政区再編と住居表示の実施により、昭和39年(1964)、上平右衛門町の名は浅草橋一丁目に吸収され、歴史の中へと姿を消しました。
水運と職人文化に支えられ、災害と復興を繰り返してきたこの町の歩みは、下町東京の変遷そのものを映し出しています。