由緒

3氏子各町について

御創建(1062年)以来、この地の鎮守として信仰を集めてまいりました。
江戸時代に福井町の鎮守となってからは三百年近く、のちに左衛門町・新福井町・上平右衛門町へと氏子区域が広がり、現在は浅草橋一・二丁目の鎮守として親しまれております。

氏子五ヶ町について

銀杏岡八幡神社には次の5つの氏子町会より成り立っています。

  • 宮元町会
  • 新福井町会
  • 浅草橋一丁目西町会
  • 浅草橋三丁目町会
  • 浅一八幡睦会

それぞれ、江戸時代から明治維新、明治・大正・昭和の歴史を引き継いでいる地域であり、現在の地図に当てはめると次の通りとなります。

氏子区域図

氏子区域は台東区浅草橋1丁目2~6、9~36、浅草橋2丁目1、3~7、9~13、15~19。なお、1丁目9、17、18、30、2丁目1、12、13はその一部が氏子区域となります。
それぞれの氏子地域の地図は以下の通りとなります。

  • 宮元町会→浅草橋1丁目18(一部)、19~21、27~29、30(一部)、31~33
  • 新福井町会→浅草橋1丁目34、35、36(一部)、2丁目6、7、9、10、16~19
  • 浅草橋一丁目西町会→浅草橋1丁目2~6、11~16、22~26、36
  • 浅草橋三丁目町会→浅草橋2丁目1(一部)、3~5、11、12(一部)、13(一部)、15
  • 浅一八幡睦会→浅草橋1丁目9(一部)、10、17(一部)

江戸時代からの町名は関東大震災後の区画整理事業と、戦後の昭和39年からの住居表示の実施により、変更を余儀なくされました。
ここでは、江戸時代から現代までの浅草橋の地名の変遷を見ていきたいと思います。

古地図に見る銀杏岡八幡神社

江戸末期に発刊された「東都浅草絵図(文久元年・1861年刊行)」には「杏八マン」として当社の記載が見えます。

古地図銀杏岡八幡神社

この地図は右側が北となっており、図の下部に太く描かれている青い川の部分が隅田川となります。
赤で囲まれた部分を拡大し、現代の地図で見慣れた、北側を上に回転させたものが次の図となります。現代の氏子区域の部分を薄緑色で網掛けをしました。

古地図銀杏岡八幡神社

半分ほどが武家屋敷となっており、町屋としては、福井町一丁目、福井町二丁目、福井町三丁目、平右衛門町(後の上平右衛門町)ということがわかります。
武家屋敷はそれぞれ次の通りです。

酒井左衛門尉

1598(慶長3)年以来、出羽鶴岡藩酒井家17万石の下屋敷がありました。

佐竹右京大夫

出羽国(現在の山形・秋田)、久保田藩の藩主であった佐竹氏の屋敷として延宝2年(1674年)にその屋敷地として整えられました。

佐竹左近将監

1718(享保3)年に西北の隅を分割して同族の佐竹左近将監の屋敷地となりました。

明治初期の浅草橋

公益財団法人特別区協議会が公開している「デジタル古地図」では、明治初期から戦中までの古地図を掲載しており、この記事を作成するに当たり参考にさせていただきましした。 東京五拾区縮図(1869年・明治2年)を以下に引用し、現代の氏子区域を図示します。

東京五拾区縮図
「東京五拾区縮図(三拾八番組 浅草平右衛門町その他)」明治2年
出典:公益財団法人特別区協議会「デジタル古地図」

江戸時代には酒井左衛門尉、佐竹右京大夫、佐竹左近将監の屋敷地だった場所は、それぞれ、 酒井左衛門尉→大泉藩邸、佐竹右京大夫→桑名藩邸、佐竹左近将監→岩崎藩邸となっています。
大泉藩は明治初期のみに用いられた名称で、後の庄内藩、酒井氏の屋敷地として江戸時代から引き続きその地に屋敷を構えておりました。
桑名藩は明治維新の際に、桑名藩松平家の屋敷が廃藩置県に伴う藩邸の移動によりこの地に移動してきたものです。
岩崎藩邸は久保田藩の支藩で、佐竹氏が引き続きその地に屋敷を構えていたことが窺えます。

明治期の「地番」と住所

日本では長い間、土地の一筆ごとに付けられた「地番」がそのまま住所として使われてきました。
この制度は1873年(明治6)の「地租改正」で導入されたもので、全国の土地を所有者や地目ごとに区切り、一筆ごとに番号を振ったのが始まりです。
この「地番」がそのまま郵便や住民票にも使われたため、都市部では番地が飛び飛びになったり、一つの地番に複数の建物があるなど、さまざまな不便が生じました。

「住居表示法」と町名の変化

こうした不便を解消するため、1962年に「住居表示法」が制定されました。土地ではなく「建物(住居)」を基準に番号を付けることで、郵便や宅配も分かりやすくなりました。
しかし同時に、「御徒町」「稲荷町」など、江戸以来の歴史ある町名が「東上野〇丁目」といった機械的な名前に変えられてしまい、多くの町名が失われました。
昭和40年代には文化人や住民から「地名抹殺」「文化破壊」との批判が高まり、一部の地域では住居表示の導入が見送られたため、千代田区や新宿区の一部などでは現在も細かい町名が残る地区もあります。

氏子区域の特色

銀杏岡八幡神社の氏子区域もまた、こうした「住所制度の変化」の影響を受けてきました。
しかし、江戸時代から続く町人文化の中で育まれた町名や地域のまとまりは、戦後の住居表示によって整理されましたが、氏子の結びつきは途切れることなく今に受け継がれています。

氏子各町の町名の変遷

明治初期から関東大震災までの浅草橋、特に現代の氏子区域に該当する町は、以下の通りでありました。

  • 福井町1丁目~3丁目
  • 新福井町
  • 左衛門町
  • 上平右衛門町
五千分一東京図測量原図
五千分一東京図測量原図(明治17年 1884年 国際日本文化研究センター所蔵地図データベースより引用)
番地界入東京市拾五区区分図
番地界入東京市拾五区区分図 浅草区図(明治44年 1911年 公益財団法人特別区協議会HPより引用)

しかし、関東大震災により町の形は一変し、その後の復興計画により江戸時代から続く古い区画は一新されることとなりました。
この際に、新しい町名“浅草橋”が誕生することとなるのです。この町名での区割りは、昭和39年の住居表示の実施まで続くことになります。
そして、この時に制定された区割りが、現在の氏子町会に続くものとなっております。

詳細鮮明最新浅草下谷大地図
詳細鮮明最新浅草下谷大地図 附日本橋神田ノ一部 其ノ三(南部)(昭和11年 1936年 台東区立図書館デジタルアーカイブより引用)

そして、住居表示の実施により、現在の地図の通りになったのです。

現在地図

宮元町会

  • 旧福井町1丁目と2丁目の一部(昭和9年に旧浅草橋2丁目に編入)
  • 旧新福井町(昭和9年に一部が旧浅草橋2丁目に編入) →旧浅草橋2丁目(昭和39年に現浅草橋1丁目に変更)

新福井町会

  • 旧新福井町(昭和39年に現浅草橋1・2丁目に変更)
    明治維新後に新しくできた町名。江戸時代には佐竹藩の屋敷であった
    震災前の浅草新福井町は、旧浅草橋2丁目一部、旧浅草橋3丁目の一部にまたがっていたが、震災後の復興計画により、その範囲が狭まった。
    昭和39年に住居表示実施により浅草橋1・2丁目に編入され、廃止となる。

浅一西町会

  • 旧左衛門町(昭和39年に現浅草橋1丁目に変更)
    明治維新後、旧酒井左衛門尉(庄内藩・現山形県鶴岡市)の屋敷跡に新しくできた町。
  • 旧上平右衛門町(昭和9年に一部が旧浅草橋1丁目に変更、残す部分は昭和34年に現浅草橋1丁目に変更)
  • 旧福井町3丁目(昭和39年に現浅草橋1丁目に変更)

浅草橋三丁目町会

  • 旧新福井町の一部(昭和9年に旧浅草橋3丁目に変更)
  • 旧福井町2丁目の一部(昭和9年に旧浅草橋3丁目に変更) →旧浅草橋3丁目(昭和34年に現浅草橋2丁目に変更)

浅一八幡睦会

  • 旧福井町1丁目(昭和9年旧浅草橋1丁目に変更)→旧浅草橋1丁目(昭和34年に変更なし)